<開業までの道のり>
兵庫県芦屋市生まれ~山手小学校へ
小さい頃からとにかく動くことが好きでした。
4歳から市のラグビースクールとスイミングスクールに通っていました。
ラグビーは父が好きで、当の本人はこけて怪我をするのが嫌で渋々通っていたような記憶が(笑)
しかし骨折や大きな病気もなく、健康で丈夫な体になる土台となったと思います
小学校ではドッジボールやバスケットボールなど休み時間・放課後は基本グラウンドで遊んでいました。家から小学校までも「山手」というだけあって、急な坂道をランドセルを背負って頑張って通ったことを思い出します。
六甲学院中等高等学校へ
小学校6年生の時に阪神大震災があり、自宅も半壊し大変な時期でしたが周囲のサポートのおかげで六甲学院に進学することができました。中学1年生の時にはまだまだ交通も復旧しておらず、阪急、JR、阪神電車を乗り継いで通いました。
そして小学校の時よりもっと急な坂道を毎日通いました。
中間体操や伝統のトイレ掃除など体力だけでなく精神面も鍛えられるさまざまな行事がありました。
そして中高一貫校ということもあり58期の同級生の繋がりを卒後20年以上経過した今でも強く感じますし、多様な方面で頑張っている同期の存在は凄く良い刺激になっています。
また患者様として家族を連れて通院してくれたり、お世話になった先生の歯の治療をしたり、地元だからこそ六甲の『縁』を感じる日々です。
コロナ禍以前には特に仲の良かったバスケ部の同期で集まったり飲み会をしたりしていました。またそういう機会が増えれば良いなと思います。
広島大学歯学部へ
もともと広島には親戚も多く縁がありました。6年間の大学生活と1年間の研修医生活を広島で過ごしました。大学でもバスケ部となり、ここでもいろいろな出会いがありました。
学業の方は良くも悪くもない中間といった形でしたが、大学では新入生のオリエンテーションキャンプの実行委員に属し、新入生と共にキャンプやイベントを企画実行していました。
大学4年生の時には文化祭の役員として、企画運営に携わりました。大学生の頃にはいろいろな企画をまとめる立場になる事も増え、協力して何かを企画することの難しさを経験する機会が多かった印象です。
部活は引き続きバスケ部に所属しました。バスケ部では特に現在の仕事に直結するようなご縁がたくさんありました。広島大学の縦の繋がりもそうですが、周辺の岡山・九州・四国・関西などの大学との交流試合などもありバスケットボールを通じて横のつながりを持つ機会もたくさんありました。
兵庫県尼崎市の歯科医院勤務~東京都新宿区で分院長に
広島大学病院で研修医を修了した後に尼崎の歯科医院にて勤務しました。
1日約100名ほどの患者様が来院される歯科医院で、新米歯科医師の私は毎日様々なことを学びながら保健治療をベースに歯科医師としての自分の考え方や手技を研鑽する場となりました。
5年間勤務させて頂き、将来は開業したいという夢があったのでそのために歯科医師としてだけではなく院長として必要なことを学ぶために東京新宿区の歯科医院の分院長となりました。
東京には全く馴染みもなく、また都会のど真ん中で勤務することは社会人としてもいろいろな経験ができた生活でした。
「患者様を笑顔にするためには、まず働くスタッフが笑顔になれる職場作りから」という考え方もこの頃から自分の中で確立されてきました。
またさまざまな勉強会に参加しましたが、東京で開催される勉強会やセミナーは多岐に渡り、ここで知り合った同学年のモチベーションの高い先生たちと出会えた事も大きな財産になったと思います。
兵庫県西宮市にて開業
東京と地元の往復を何度もしながら、様々な方のご協力のもと2017年3月に当院は開業しました。地元芦屋市の隣町の西宮市は小学校の頃から高校まで塾や予備校に通ったり、家族で食事にきたり、友達と遊んだりとてもゆかりのある町です。
開業してから六甲学院の同級生が家族とともに来院してくれたり、お世話になった先生を治療したり今も続くご縁に感謝しています。
その西宮市の中心市役所の目の前で開業し、地域の患者様が自分の歯の健康に少しでも興味をもってもらえる場となるよう日々スタッフとともに頑張っています。
『歯医者には痛くなってから行くのではなく、痛くならないように行く』
治療(CURE)から予防(CARE)へ
2022年度の「骨太の方針」で、年代関係なく国民全員が定期的に歯科健診を受けることを目標とする、「国民皆歯科健診」制度の検討が発表されました。
日本の歯科治療も大きな転換期を迎えています。
歯科にもたれた痛い・怖いイメージを払拭し、少しでも歯医者嫌いの方が来てよかったと思って頂ける歯科医院となれるよう今後も日々精進して参りたいと思います。